日吉神社の輪くぐり神事
豊臣秀吉に縁のある、清洲の日吉神社。
八月一日は夏祭りである輪くぐり神事が開催されると言う事なので、会社帰りに家族と合流して行ってみました。
普段と違って屋台が出て夏祭りらしくなっていました。
豊臣秀吉に縁のある、清洲の日吉神社。
八月一日は夏祭りである輪くぐり神事が開催されると言う事なので、会社帰りに家族と合流して行ってみました。
普段と違って屋台が出て夏祭りらしくなっていました。
清須市内には火の見櫓が点在して存在しています。
その内の一つが清須市西枇杷島宮前一丁目に存在します。
ブロンコビリーの裏手にある神明社の敷地内に火の見櫓が設置されていました。
銘板などを探したのですが見つかりませんでしたので、由来などは不明です。
清須市内には火の見櫓が点在して存在しています。
その内の一つが清須市上条に存在します。
清須市土田にもある火の見櫓からも近く、昔は各地域毎に建設されていたことがわかります。
ペンキが剥げて赤さびが浮かんでおり、少々うらぶれた感が出ています。
てっぺんの櫓の所では無く、塔の途中に半鐘が吊り下げられていることがわかります。
1534年(天文三年)五月津島に隣接する勝幡城で織田弾正忠信秀の三男として誕生す。
幼名 吉法師
この像は1539年(天文八年)那古野城主として元服前の信長。
仮名 三郎(5才)
那古野城は今の名古屋城二之丸辺り
新清洲駅前の歩道に織田信長のモニュメントが設置されました。それぞれのモニュメントの横には屋根付きのベンチも用意されています。パッとみた感じはバス停です。
案内看板の内容を書き起こしてみました。
戦国ロマン青春の町・新清洲
織田信長・モニュメントのご案内壱、1534年(天文三年)五月津島に隣接する勝幡城にて誕生する。
幼名は吉法師
1539年(天文八年)五歳で那古野城主(今の名古屋城二之丸辺り)
となった時の姿 仮名 三郎弐、1549年(天文十八年)元服して三郎信長と名乗る。
この時代 信長は「大うつけ者」と言われていた時の姿
このころ斎藤道三の娘 鷺山殿(通称 濃姫)と婚姻している。参、1554年(天文二十三年)四月二十四日清須城主となる。
1560年(永禄三年)五月十九日桶狭間の合戦にて四万五千人の
今川軍を二千人の織田軍で今川義元を討つ。
受領名 織田上総介之信長と名乗っていた時の姿四、1567年(永禄十年)八月稲葉山城を落とし岐阜城として
「天下布武」を全国に号令した当時の姿五、1582年(天正十年)安土城竣工 洋風甲冑を着けた時の姿
天守閣でなく天主閣として武家勢力の頂点に立った。以上の五点のモニュメントを駅前商店街に設置しました。お楽しみ下さい。
新清洲駅前商店会
信長が本拠地とした清洲城。
そして時代が下り徳川家康によって清須から名古屋への遷府がなされ、城下町ごと名古屋に移転。
これを清洲越しといい、来年(2010年)は、清洲越し400年となります。
本来の天守閣は、五条川を挟んだ対岸の清洲古城跡公園内にあったとされています。
五条橋近くでは、鯉のぼりが空高く五条川上空を泳いでいます。
旧国道22号(現県道67号)にかかる歩道橋。1959年6月27日完成。
当時愛知県一番の交通量を誇った旧国道22号線上に架けられた歩道橋。歩道橋を架ける前は、この付近で1日1件事故が起こっていたそうです。鉄骨で作られた今時の歩道橋とは違ってコンクリート製です。話によれば、鉄道の跨線橋の技術で作られているとの事です。
県道の整備、拡幅などの工事のため、この歩道橋も2年後には取り壊される予定とのことです。
清洲日和.blogを始めて5年以上経ちました。
その時その時のMago6の興味のある対象しか記事にしていないので、今のところ、「清須(または清洲)」から離れた題材の記事が多く掲載されることになっています。
何の脈絡も無いですが、干支が「子」に戻った事もありますので、心機一転「清須」にテーマを絞った記事も載せようと思い、清須百景と題して、清須の名所旧跡をMago6視点で紹介していこうと思います。
名所旧跡に拘らず、「清須の今」も紹介できたらな、とも思っています。
あまり期待せずに読んでいただけるとありがたいです。